目玉の寝言

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(´-`).。oO「生産性」?なにそれ美味しいもの?

「生産性ガー」と噴き上がってる人も、そうでない人も、実際どれだけの人間が問題とされる記事を読んだかは分からんが、そこそこ意見も出尽くして、あの界隈が喜々として出張ってきたところで、なんとかの駄賃ではないが思いもかけず哲学的な領域にまで思考が及んだということもあり、面白いので自分の考えを纏めてみた。

※長文注意

 

まず概要から。
雑誌「新潮45」8月号、特集は大文字で「日本を不幸にする『朝日新聞』」である。
その中に「第一部」「第二部」がぶら下がっていて、件の記事は「第二部」。「特集」内の記事である。この点を無視している論調(賛否限らず)が散見されるが、結構重要だと思うのだが…どうなんだろう(苦笑。
記事タイトルは「LGBT支援の度が過ぎる」。
過度に「支援」している(と杉田議員が感じている)主体は朝日新聞(や毎日新聞)、客体は所謂「LGBT運動」である。政策によるなんらかの「支援」の意味では全くない。これも巷の論調ではあまり触れられていない部分だ。

で、その問題とされる「生産性」という文言について。
試しに行政文書や学術論文を読んでみることをお勧めするが、この文言はジャンル限らず、例えば「労働生産性」「再生産性」「人口再生産率」といったカンジで頻繁に使われている所謂「お役所言葉」「経済用語」という類いである。
これを知らない人はまず「生産性」という言葉そのものに反応するんだろうが、当該記事を読めば、文中で指す「生産性」の"有無″が「生きる価値」や「基本的人権」の″有無″でないことは明らかだ。「男女がいないと生物学的に人口は増えない」という当たり前の事実を杉田議員は述べているに過ぎない。
税金の投入に「公平性」と「生産性」が顧慮されねばならないことは論を待たない。ばかりか、かつて生産性が担保されないまま地方へばら撒いた苦い一例からも、血税の使途の重要性を我々は知っている筈である。
特に少子化対策では、現実的に子供以上の「資本」はなく、ただでさえ限られた資本の再生産性を、公費を使ってどう担保していくかという将来にも向けた重要な問いかけでもある。
出産可能な年齢の女性人口から概算すると、100年後の日本の人口は既に推定されている。これはかなりショッキングな数値で、少子化対策が緊急の最重要課題になっている今、同性カップルに対して限られた税収から限られたパイ(予算)を振り分け、新たな措置をすべきものなのか、との問題提起と理解するのが文脈上自然だろう。

尾辻かな子やオールドメディア、朝日新聞毎日新聞の論調は言葉の切り取りによる明らかなミスリード
そして毎度の如く、肝心の文章も読まずに脊髄反射し、あるいはミスリードであることを承知の上、本来議論すべき論点から完全に逸脱した場所で、記事を書いた本人に殺害予告まで出ているというのだから、こりゃもうどうかしてるぜというのが私の率直な感想だ。

雑誌「新潮」がどんな読者層を主としているかは知らないが、「お役所言葉」を使ったことによって、彼女の本来の意図が伝わらなかったなら表現としてはマイナス点かもしれない。なんとなくイヤ、と感じる人がいるのも、まあ、分からないでもない。
が、しかし、大事なので繰り返しになるが、余剰がないばかりか先行き窮していくのが目に見えているこの分野において、「資本」の「再生産性」を優先しない公費の在り様を放置するほど、今の日本には余裕がないのが現実である。
子供を「資本」に例えるなんてケシカラン!と、もし私が公人ならボコボコに叩かれそうだが(笑)、逆に主観や情緒の入る余地のない「味気ない言語」でない限り、省庁間や地方行政とのやり取りは不可能であり、結果的にその「公平性」が阻害されるのは明らかだ。
仮にこの騒動で、公費(特に少子化対策)の使途の議論から、「デリケートな問題だから…」という情緒的な理由で「生産性」という言葉が狩られ、圧殺・削除されるようなことがあれば、経済分野及びその他の公費の振り分けとの整合性が取れないばかりか、報道によっては社会保障制度と個人の幸福追求権が混同されかねない危険性もある。
冒頭にも上げた「新聞による度の過ぎた支援」が行われている「LGBT運動」だが、まさしくこの社会保障制度と幸福追求権の混同を故意に促していると思われてもおかしくない側面があり、これは彼女だけでなく、私も大いに危惧するところ。

次に、いわゆる「LGBT運動界隈」にも、これを扱うメディアにも異議を唱えたいのが、LGBとT(トランスジェンダー)を一緒くたにしている、ということ。
T(GID)に関しては、医療面での改善(適合手術の保険適用など)が進んでおり、法的な課題も含めて今後議論が広まり深まればよいと思う。
杉田議員はこの点を文中ではっきり区別しており、そのことからも今回の記事は

〇新聞による"LGBT運動体"への過度の肩入れがもたらす「誤解」や「誤認」。
少子化対策という公費の投下において「生産性」を無視することは出来ない。
〇「LGBT」を票田として利用しようとする政治家が、誤認に基づいた安易な税の配分を政策に掲げる風潮に対する危惧。

に集約された論評であり、それこそ様々な「生産的」議論に発展してしかるべき問題提起も含んでいる筈なのだが、言葉の使い方という矮小化された言論空間を自ら作り出し、まるで議論の広がりを阻害しているような識者や政治家、マスメディアには疑問しか感じない。
一例として私の愚考を開陳すれば、女性に対して婚姻内縁シングル性向の別なく「1人目出産には200万」「2人目には300万」「3人目以降は500万」の「出産祝い金」を国は出す、という案がある。
人間1人当たりの生涯賃金から税収を計算すると平均で約5千万という数字になるので、子供が3人成人→定年で1億5000万。1000万の初期投資なんざ安いもんだ。これこそ「生産性のある公費の投下」と思うが如何であろう。
…と、コレを読んだ諸氏は、財源は?代理出産は?養子を貰う場合は?等々、思われたのではあるまいか。あくまで一例だが議論の鳥羽口は色々あってよく、それこそ、杉田議員の問題提起を一過性の「言葉狩り」に終わらせない為の建設的生産的な在り方だと思うのだ。

読解力がない人が騒いでいるのか、党派性ありきで叩いているのか、もしくは私が見落とした隠しセンテンスがあったのか、もし当該記事を熟読した上で「生産性の有無」が「人権や存在意義の有無」と読めた人がいたら是非お知らせ願いたい。

 

そしてもうひとつ。
この騒動で、思いもかけず自分自身の性向についても考えが及んだ。
一種のカムアウトになるのだろうか、実は私は自分のセクシャリティが良く分からないのだ。その属性を意識したことがない、と言った方が正しいかもしれない。
統計的に相手は異性が多いが、同性も居た。
性別で相手が決まることもない。性愛が絡む時もあれば全く絡まない場合もある。つまり「結果的に私の好きな相手が好きな相手」でしかない。想いの形も色々だが、深度も色々、まあぶっちゃけ結構適当である。故に独身だ(笑。

ここから先はあくまでも私の持論。
「愛し合う二人の結婚(同性婚)を認めよう」
感動的だ。
誰もが異論を唱え難い、ニュージーランド議会での有名なスピーチだが、しかし私は「じゃあ‟愛”ってなんだべ?」と考えてしまう。
どこからが「愛」なのか、性愛が絡めば愛か?それともキスすれば愛?思いあうだけでも愛だろうなあ?
それを誰が「判定」するのか。閾値を決めるのか。
「愛」の形や「性向」を第三者が定義することは、個人の内面に深く踏み込む逸脱行為だと思う。
「愛しあっている証拠を見せろ」と言われても困るし、証拠があったところでそれをどう行政が判断するのだろうか、「ここからが、こういう形が、”愛”なのです」と?
…これは、どうも、変だ。

行政は、憲法にある「両性の同意のみに基づ」いた「婚姻」に依拠することで、明確な基準を持つ。
婚姻には義務もある。普段あまり意識しない、婚姻で発生する「義務」とは何を指すのか。
「婚姻制度」というのは縦横に連なった血縁関係であり、その親等(しんとう)によって養育、扶養、介護などの義務を負う(多くは3親等内・経済状態で勘案される)。例えば両親を失った子供が祖父母や叔父、叔母などに育てられるといった事例だ。
生物学的雌雄の交配によって個体数を確保し種の存続を目指すのは、生物としての人間の本能であり、牙も鋭い爪も持たない人類が「コミュニティ」という防御の術を得、集団が集団を形成し、やがてそれが国家となり、その一番小さい単位としての「夫婦(家族)」に、等しく法的な拘束と優遇を与えたことは、他の生物には出来なかった人類の英知と言える。

個体数が下がればコミュニティは滅びる。国家というコミュニティがなくなれば、あらゆる保障や社会制度、経済活動、インフラも潰える。
人間が生物である以上、雌雄の対(つい)は国家や自治体というコミュニティの中で現行のまま「保護」されるべきというのが私の考えで、「婚姻」の定義を「変える」ことには否定的である。
その一方で、個の尊重、多様性といった言葉で様々な価値観に等しく重きが置かれる時代であることも確かで、その中の一例が「同性婚」だということも分かる。
分かるのだが、その多様性が膾炙される形が、いわば画一性である「婚姻」という制度に行きつくのが分からない。人間の数だけある様々な愛の形を「婚姻」に落とし込む、その理由が分からないのだ。
かつて日本でも「フリーセックス」の旗を振り、性の解放を謳った多様性の求道者達は、「婚姻」からの解放も望んでいた筈である…。

もし「婚姻」の制度自体を変えたければ憲法改正は必須だが、奇妙なことに活動の主体を担っている「活動家」と呼ばれる人達は揃いも揃って「護憲派」である。市井の性的マイノリティ当事者(私も入るのかw)から、彼ら党派性丸出しの「活動家」に対して不信の声があがるのも当然といえば当然だろう。
同性愛が迫害・刑罰の対象となっていた欧米とは歴史も宗教も文化も違う日本に、欧米型の「LGBT運動」はそぐわない、とはこれもまた少なくない当事者が指摘をしている点でもあり、現在進行形で一部過激化先鋭化している「LGBT運動」の現状に私も危惧を感じている。

日本において同性愛が「禁忌」扱いになったのは明治以降、とはよく言われるが、本当にそうだろうか。それまでの長い歴史の中で、帝も殿上人も、武士も町人も農民も、同性愛がなにか得体のしれない特殊で異形の愛であるとは、これっぱかしも認識してはいなかった。ご維新でいきなり価値観が変わったとは思えないし、政治家人脈に流れる同性愛的な繋がりや、近代の文学作品を引き合いに出すまでもなく、日本人の多くはそれを一度でも「禁忌」であるとか「排除すべきもの」とは思っていなかったと考えるのが自然だ。
その日本で今、過剰にも見える「LGBT運動」が起こっていることが不思議でならない。

 

蛇の足:
彼ら「活動家」に、私が個人的にも嫌悪感を持っているのには訳がある。
この「LGBT運動」にも絡んでいる有名な某NGO人権団体が、私の知人を社会的に葬った。
身近にこんなことでも起きなければ、今でもその実態に触れることはなかったし、こうして色々と発言することもなかったと思う。
その悪辣かつ周到なやり方に怒りと恐怖で貧血を起こしかけたくらいである。
普段彼らが美々しく歌い上げる「人権」は、彼らに都合の悪い人間には一切適用されない。自分達とは政治的に相容れない人間の人権はゼロ、人生を葬ることなど彼らにとっては朝飯前で、その「人権の使い分け」には空恐ろしいものがあった。


杉田議員はその下野時代、手弁当で何度も国連へ赴き、彼ら活動家が中心となって発信していた所謂「従軍慰安婦強制連行」の欺瞞を追及してきた人物でもある。
今回彼女がこれら「活動家」達の糾弾と殺害予告を受けている現実はとてもじゃないが偶然の産物とは思えないのだ。

これは私の憶測に過ぎないのだろうか。